法話

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親鸞聖人とリベラリズム    当院 木曽耕亮 

私はもう一年半くらいテレビの地上波・BSもほとんど見ることが無くなりました。代わりにテレビをインターネットに繋ぎネットの番組を視聴するようになりました。主に政治・経済・国際情勢等の番組を視聴しているのですが、そのチェックしている番組の一つに奥山真司という地政学、戦略学者が配信しているものがあります。内容は国際政治・情報がメインで毎週配信されています。昨年ニューヨークタイムスという新聞に親鸞聖人に関わる記事が掲載されたということを取り上げられている回がありました。リベラリズムの欠陥を親鸞聖人の考えを通して指摘している記事です。現在のリベラリズムの致命的な欠陥は自らの負の部分を認められていないということであると、親鸞や法然の浄土教の教えでは人間は不完全なもので、間違いを起こす存在であると自らの欠陥を認める立場をとる。人間は純粋では無いという認知に欠けているのがリベラリズムの欠陥であるというものが概要です。最近、特に日本でも世界的に見ても政治的に保守に対してリベラルと使われることが多いようですが、世界的権威であるオックスフォード英和辞典にはリベラルとは相手の意見に寛容であるということです。親鸞聖人は自分自身を非常に深く見つめられた方であったと思います。だから己を善を為しえない悪人であり、環境次第では非道な行いをしてしまう存在であるという立場をとられたのでしょう。本当の自分を深く見つめる事は大変難しいことだと思います。自分の欠点を頭では判っていても他者との関わりの中ではそれを意識していくのは容易ではありません。親鸞聖人の深い自己反省には遠く及びませんが、自分を見つめる事が他者への寛容につながるのがと言い聞かせていかなくてはと思っています。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利をいのちをかけてを守る」という言葉があります。このような寛容さが大前提ですら中々実行できない私というものに親鸞とリベラリズムという記事を通して改めて気づかされました。寛容の難しさ、ただそれでもそれを念頭においた先の寺務であり実生活でなければと思う次第です。