法話
念仏は仏の呼び声
今都会を中心に法事や葬儀が簡略化しているようです。もう一度その意義を考えてみなければなりません。私のいのちは何より大切なものです。そして世界に一つしかないかけがえのない存在です。このいのち全て親を縁として頂いたいのちです。願われ思われて育てられたいのちです。しかし普段私たちは生まれてきたことを当たり前のように思っているのではないでしょうか。このいのちは何時か様々な別れがあり、そして終わっていかねばならないいのちです。そんないのちを考える大切な機会が法要です。そして亡き方々はどこにいるのか。私はいのち終わってどうなるのかを教えてくださるのが仏法です。「別れた人は、み仏となって、手を合わす私の元にいつもいてくださる」という言葉もあります。
しかし、今現代に生きる人に浄土真宗の教えが伝わりにくくなっているのではないでしょうか。阿弥陀様は本当におられるのか?仏様は私には関係ないと思っている人も多くいると思います。私たちは自分中心に物事を判断します。自分の考えは、いつも自分にとっての善悪や損得、苦楽、好き嫌い、勝ち負けを計算しながら行われます。これが世間における常識的な分別による思考です。浄土真宗は親鸞聖人によって開らかれた教えです。聖人は九歳で出家得度して、比叡山で二十年間厳しい修行に励まれました。しかし二十九歳の時比叡山での自力修行を捨てて山を下り、法然聖人の説かれるお念仏の教えに遇われました。真実を求め、比叡山で様々な仏教を学ばれ、修行して仏教を極めようとされた親鸞聖人、しかし真実にほど遠い身であることに気づかれて、生涯をお念仏の教えに生きられた、聖人の生き方に学び、み跡を慕うことが私たち門信徒、僧侶の生き方です。親鸞聖人は阿弥陀様をどの様にお説き下さったのでしょうか。阿弥陀如来は私に聞こえる声となって呼んでいて下さると、顕かにされました。私が今称えている一声一声の念仏が「我に任せよ 必ず救う」と私を呼んでいて下さるのです。しかし私たちはお念仏を呪文のように考えていないでしょうか。今、仏様に呼ばれていることになかなか気づかないのです。「我称え 我聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れてゆくぞの親の呼び声」と歌われ喜ばれた僧もいます。今称えているお念仏の声が自分の耳に聞こえている、そのままが仏様の救いの中なのです。「安心して生きよ、我が守る」といつもお念仏ともにいてくださるのです。私を見捨てることのない真実と共に生きることが浄土真宗の生き方です。