法話
諸仏護念の益 〜宗教とは何か〜
今ほど宗教が問題になっている時代はないのではないか。宗教が原因で戦争が起こり、またいのちを害したりしたりしている。さらに宗教に名を借りた詐欺まがいな金儲けなどが起こり、宗教は恐ろしいものと考える人も多くいます。本来人々の幸福を願いそれを目指すのが宗教であるはずですが、何処かで間違っているのが現実です。
多くの人々は「宗教」をどのように考えているのでしょうか。眼の前の願いをかなえてくれることを宗教と考えている人が多いのではないでしょうか。お金がほしい、立派な家に住みたい、家族みんな健康に暮らしたい、長生きをしたいなど私たちの願いはさまざまです。しかし所詮私の願いの根本は煩悩から起こってくるものです。ひとつの願いが適えられればまた次の願い起こってきりがありません。無量寿経に「田が有れば田に憂い、家があれば家に憂う・・・」と説かれています。私たちは有れば有ることでさまざまな悩みがあり、無ければ無いで悩み苦しむ煩悩の身です。人間には限りない欲望があります。
例えば全ての人に睡眠欲・食欲・性欲・財欲・名誉欲の五欲があります。これらの欲望もきりがありません。これらの願いという欲望を叶えてくれるものが宗教ではありません。何故ならばそれらは釈尊の求めたものとは違うからです。
よく日本人は本当の宗教が解らないのではないかといわれます。新年のテレビを見ていると初詣をした人々にアナウンサーが聞くことは「今あなたは何をお願いしましたか」と尋ねます。仏様や神様は何かをお願いするところと決めているようです。今日の暗い世相の中で何かをお願いせずにいられない気持ちはよく分かりますが、他の宗教はともかく、仏教は私の願いをかなえるものではなく、私の本当の姿を知らせてくれる教えです。そこに見えてくるものは生老病死、四苦八苦のわが身です。この人間の抱えている根本苦であるいのちが救われる教えが仏教です。
多くの人が他と比較しながら生きています。それがこのままで良いと生きる道が知らされます。私たちは隣の人と比較してもっと良いものが欲しいもっとあんなふうに成りたいと、比較することによって喜んだり悲しんだりしています。隣の人だけではありません、日本国中、世界中の人々が比較しあって競争社会をつくり争っています。しかしそこには本当の幸せは訪れないのではないでしょうか。小松市に住む高野定子さんは三十九才の時夫を亡くし悲しみのどん底で仏法に出遇い知らされたことは「比較して生きなくともよいという世界が見つかったことです。比較しなくても生きられる世界、自分は自分のままでよかったのだという世界に気づかせて頂いたことが喜びです」と述べています。(*1)
真実を知る
私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると考えています。しかし自分の顔を自分では見ることができないように、他人の欠点は見えても自分の本当の姿には気づかないのです。仏法に遇うと真実の自分を知らされます。それは自分中心で我執の中にどっぷりと浸かって生きてきた我が身が知らされるのです。そして多くの人は今日を生きることのみに追われて、なぜ生きるのか、いのちとは何かなどは考えないで過ごしています。今自分がどこにいるか、どこへ向かっているのかが判からないことを迷いといいます。私たちは生死の身です。いつ何が起こるか判からない無常の人生です。最近生命という言葉をよく耳にします。この生命という言葉に現代がよく表れていると思います。多くの人々も医学や医療も生きることのみ考えて死を見ようとしません。仏教はいのちを生死と説きます。いのちとは生きることのみではなく、いつも死を孕んでいるのです。死を見ない生は結局いのちそのものも見ていないのでは無いでしょうか。
私の知人に六十四才の奥さんを癌で亡くした方がおります。その奥さんは癌が発見されてからわずか三ヶ月半余りで亡くなりました。入院して間もなく医師よりもう手遅れのがんであることがご主人に知らされました。しかしご主人はもちろん家族の誰もがそれを受け入れることができませんでした。癌であることを知らせないまま一般病院で二ヶ月半余りを過ごした後、ビハーラ病棟(末期がんの専門病棟)に転院することになりました。ビハーラ病棟に入院相談の時、ご主人が入院の条件として本人がショックを受けるから決して病名については話さないことを強く申し出られました。何も知らされない奥さんは入院後しばらくしても病状が悪化する一方でした。
ある日奥さんが医師に「私本当は何か悪い病気ではないのですかと」尋ねました。しかし先生は家族との約束がありその場はごまかすよりほかありませんでした。彼女は徐々に医師とも他の医療スタッフとも会話が無くなりました。そしてご主人をはじめ家族とも話さなくなり、一人沈黙する様になりました。それを見かねた看護婦が医師に家族全員と話し合うことを提案しました。話し合いの日は本人を除いた家族が集まりました。医師より詳しい病状説明があり「今を除いたら家族の会話が出来なくなります。今の病状を本人に告げる方がよいと思います」と勧めましたが「これまで隠してきたのだから今更言わないで下さい」とご主人が言われました。しかしその時ずっと沈黙して聞いていた次男さんが「僕には母さんのことを言う資格がないかもしれない。今まで母さんのことは父さんや兄さんに全て任せていたのだから、しかしこれは誰の話をしているのだろう。父さんや兄さんの事ではなく、母さんのいのちのことだ、それを本人抜きに決めていいのだろうか。僕は言うべきだと思う」と発言しました。そしてそれをきっかけにきちんと話し、そして全員で母さんを支えて行こうと言うことになりました。
最近は治らない病気でも告知をした方が良いという医療者もいます。しかしそれが多数派にはなっていません。何故でしょうか。その一つの理由は人間死んだらお終い。生きていることだけしか考えない人が圧倒的に多いのではないでしょうか。
生のみを見て、死を見ない人に死を語れないのは当然です。しかしそれでも人は死んでいきます、死は私たちにとって自然なことです。死の解決が生のよりどころになり私を生かす力になるのではないでしょうか。その死の解決を目指すものがお念仏の教えです。