法話

法話

仏にあう 〜法を聞き、救いを信じて素直に手を合わせる。教えは身に受けるものなのです〜

 宗教は頭で知るものではなく、身に受けるものです。
 私は今、週に一度か二度ビハーラ病棟に行き、お話をしたり患者さんのお話を聞いたりしています。先日ビハーラ病棟に入院していたAさんとのやり取りをお聞かせしましょう。Aさんは末期のガンですが毎朝のお参りはほとんど欠かさずに出て一緒にお参りをしました。いつも朗らかに笑い時々は好きなお酒を飲んでいました。でもお参りのときはいつも真剣でした。それもだんだん自分の命が短くなっていることを感じているからと思います。
 ある時私のおあさじが終わってAさんの顔を見ると薄っすらと目に涙を浮かべ「ありがたいなあ」と一言洩らされました。私はその日「仏様は決して私たちを見捨てない必ず私を抱きとってお浄土へ連れてかえるお方です」というようなお話をしたのです。それを聞いてAさんは自分はまもなく命が終わるだろうという寂しさがある反面、命終わって無になるのではなく仏の世界に生まれていくことに「ありがたいなあ」と一言洩らされたのであろうと感じました。
 それからしばらくしてお部屋のベッドのところへお邪魔するとAさんはベットの上に座って考えていました。「どうしたのですか」と尋ねると木曽さん「仏堂で話を聞いているときは解ったようなありがたいような気になるが、部屋へ戻って考えていると解らなくなり、坊さんにだまされて居るのかなあと思います。仏堂の私とベットの上の私とどちらの私を信じたら良いのでしょうね」と尋ねられました。その時私は「それは仏堂でお参りをして手を合わせたときの思いのまま信じれば良いのです」と答えました。
 仏教は頭で考えて知識を使って解るものではないからです。私たちの身で受け止めるものであり私の知識を超えた智慧の眼を開いて感ずるものです。Aさんは考えていましたが「そうですか」とうなずいてくれました。
 私たちも仏様やお浄土について素直に受け止めることはなかなか難しいのではないでしょうか。仏教は私の頭で理解するのではなくお釈迦様が説かれ、親鸞様が喜ばれた阿弥陀仏のみ教え、念仏の救いを信じ素直に手を合わせて受け止めるのです。それには法を聞くことがもっとも大切です。