法話
人生そのものの問い
私は20年あまり長岡西病院ビハーラ病棟(末期癌患者専用病棟・緩和ケア病棟)で僧侶ボランティアとして関わってきました。
患者さんの中には「死にたい」とか「たすけてください」などさまざまな苦悩を訴えられる事があります。そんな訴えの中に「なぜ生きるのか」「死んだらどうなるか」など人生そのものの問いが隠されていることがあります。
Aさんは50代の女性です。3月に子宮がんの手術を受け一時退院しましたが、7月に肺と骨髄に転移が見つかり末期ガンの告知を受けました。身体的痛みが強くビハーラ病棟へ転院してきました。痛みのコントロールの結果、暫くは痛みも取れ、落ち着いた日々が続きました。
大学4年生の長男さんが大学を休学して母親の世話をしていました。彼はあと、半年すれば大学を卒業し、さらに望みの就職先も決まっていました。しかし自分を生み育ててくれた母の傍で最後の時を過ごすことを望んだのです。
私は時々病室を訪れてAさんと大好きな山の話などをしました。しかしAさんは骨髄への転移によって徐々に下半身から麻痺が起こってベッドから動く事が出来なくなり、おむつを当てなければならなくなりました。50代母のおむつを息子が換えなければならない。とても辛い日々だと思います。
そんなある日、私と二人きりで話していたAさんが「生きるって、とっても辛い事ですね」と訴えました。Aさんは決して死にたくはないのです、しかし何も役に立たないこんな身体で生きることにどんな意味があるかと私に問うていると思いました。
多くの人は人生の価値を生産性や有用性で考えます、例えば仕事で社会の為、人の為に役だっている事に生き甲斐を見出します。さらに音楽やスポーツなどに触れて感動しその充実感が生きがいになっている人もいます。また人との愛情や友情を支えに生きている人もいます。
しかしAさんは、もはや他人の手を借りなければ何もできない、迷惑をかけるしかない自分を見つめたのです。感動する何事もありません。そして息子も自分の犠牲になっている。こんな私は生きる意味があるのかと問うているのでしょう。
私は暫く彼女を見つめながら「寝たきりでも、何も出来なくても、生きていて欲しいと願う人がいます」また「私たちはこの身体全て頂いたものです、そして願いをかけられ、育てられたいのちです。いのちある限り一日一日を大切に生きましょう」と語りました。彼女は涙を流しながら頷きました。それから一月ほどでAさんは亡くなられました。Aさんが手を合わせ最後まで息子さんと共に精一杯生きられた姿を今も忘れることは出来ません。
私達は自分の力で生き、思い道理の人生を送りたいと願っています。しかし思い道理に行かないのが人生です。仏法に遇うと本当の自分に気づかされます、このいのちすべてに「阿弥陀如来の願い」がかけられているのです。その願いに生かされている私です。阿弥陀様はいつも私を「まかせよ、必ず救う」と呼んでいて下さいます。「南無阿弥陀仏」は私を呼び続けてくださる呼び声です。この阿弥陀如来の願いに遇せていただいたとき、一人ではなかったいつも仏様と共にあったと安心が与えられます。安心の中で力強く生き抜く人生が開かれます。もちろんお念仏に出会っても苦しみが無くなるわけではありません。しかしお念仏出会った人は自分を見捨てることのない真実に抱かれてどんな時も安心して生きることが出来るのです。親鸞様は「弥陀の誓願は無明長夜の大きな灯火なり」と述べておられます。お念仏に照らされ、まことの道を生き抜く人生を歩みましょう。