法話
ビハーラ病棟の目指すもの 〜その2 いのちの短さを知らされた人〜
今述べたように、日本にホスピスが入ってきましてからしばらくは、今は厚生労働省と言います、当時の厚生省は、ホスピス病棟に対する特別な配慮はなかったわけです。ホスピス病棟をつくっても採算が全く合わなかったのです。例えば淀川キリスト教病院のホスピス病棟をつくるときに、七億円の予算を立てて、世界のキリスト教徒に募金をしたら、十何億円という募財が集まって、淀川キリスト教病院のホスピス病棟ができたと聞いています。
そういうなかで、ようやく厚生省は1993年からホスピスという名称に変わって、痛みを和らげる事を表す、緩和ケア病棟の認定を始めました、それから緩和ケア病棟は、一日一人の患者さんに対して、どんな治療をしても、まとめ方式で医療費が決められています。現在は三万四千円程の医療費が出るのです。しかし患者さんはそんなにお金はかかりません。普通に保険が適応されますし、老人医療保険も利用できます。差額ベッド料や食費はかかりますが、長岡西病院のビハーラ病棟は普通の病院程度の負担ですみます。
現在全国で160カ所ほどの緩和ケア病棟が認可されています。その百六十あります緩和ケア病棟の多くが、国公立病院のなかの緩和ケア病棟です。国立がんセンターの東病棟にもありますし、北海道から九州まで、さまざまな国公立病院で、緩和ケア病棟はつくられています。次に多いのは、やっぱりキリスト教系です。キリスト教の病院が緩和ケア病棟をホスピスとして経営しています。あとは一般病院もありますけれども、キリスト教系の病院が多いのです。
その全国百六十ある緩和ケア病棟のなかで、長岡西病院だけが、仏堂があり、お坊さんが駐在しているという、仏教を背景とした緩和ケア病棟だったのです。「だった」というのは昨年、立正佼成会がつくりました。それが現状です。
次にビハーラ病棟の目指すものというのは何であるか。田宮仁先生のビハーラ設立の理念の文章参考にしながら、私なりにまとめたものです。
㈰、「ビハーラはいのちの短さを知らされた人が、自己を見つめ、見守られる場である」。ビハーラ病棟は、末期のがんとエイズの方の専門病棟です。ただ、今までエイズの人は一人も入ってきていませんので、末期がんの病棟であると言ってもいいと思います。末期がんといっても、だいたいどのくらいかというと、現代の医学では、半年以内に亡くなっていかれるだろうというお方が入院されるわけです。しかし現状は、平均六カ月はないと思います。しかしなかには一年以上生きられる方もおられます。
ただ、ここに「いのちの短さを知らされた人が」とありますが、残念ながらビハーラ病棟で、きちっと末期がんの告知を受けている方というのは約半数です。残りの方は、高齢で知らせられない方、また認知症で自分のことがわからない方、本人がまた聞きたくないという方もおられます。そのような中で、告知できない多くの事例は家族が聞かせたくないという方々です。
一人の例を紹介します。Bさんという女性です。
この方は農家の主婦で、農作業中に気分が悪くなって病院へ運ばれましたら、末期のがんだと言われたのです。もちろん本人にではありません、家族にです。ご主人も息子さんも大変動転をしまして、「そんなはずはないでしょう、さっきまで働いていたんですよ。畑へ出ていたんですよ」と言ったのですが、検査結果は末期のガンでした。それで手術もできないし、治療の方法がないと言うことで、ビハーラ病棟に転院になってきました。ところがご主人も息子さんも、自分の妻、母が末期のがんであることを受け入れられないのですから、当然ご本人にも言えないのです。それでビハーラ病棟に入るときには、入院相談を必ずするのですが、そのときの入院の条件が、ビハーラ病棟のスタッフに対して、決して母に、末期のがんであることを告げないでほしい、がんであることさえ告げないでほしいということを条件に入院してこられました。
入院してから、日ごとにどんどん衰弱をしていくものですから、患者さん本人が、医師に対して、「私は悪い病気なんでしょうね」と聞くのです。だいたいそのように聞かれたときは、ビハーラの医師ははっきりと言います。ところが家族との約束があるものですから、「今は検査中です」とか、いろいろと濁していたわけです。看護師にも聞くのですが、看護師も濁しておりました。そのうちに患者さんは、ご主人ともご家族とも、そして医療スタッフとも、一切話をしないで、眉間にしわを寄せて沈黙を守るようになりました。それを見かねた看護師から、医師に対して「先生、今の状態をきちっと家族に説明しておかないと、取り返しが付きませんよ」という提案がありました。医師はご家族全員を呼んで、あなた達のお母さんの状態を説明しましょうと、話し合いが持たれました。一時間ほど、レントゲン写真などを見ながら「あなたのお母さんは、今こういう状態だから、今、親子の会話、夫婦の会話をしないと、もう二度と会話ができなくなりますよ」ということを説明したのです。しかしご主人も長男さんも「ここまで隠してきて、それほど悪いんだったら、もうこのまま告知はしないことにしたい」ということになったのです。たいがい告知を拒否するのは、ご本人よりも家族なのです。このことは、非常におかしな話だと私は思います。
しかしそのとき、東京に就職していました次男さんが来ていまして、「今まで僕は、父さんや兄さんに、母さんの面倒をみんな見てもらった。だから僕には何も言う資格はないと思って、黙って聞いていたけど、これは母さんのいのちの問題じゃないか。母さんのいのちの問題を俺たちが決めていいのか」そのように叫びました。その言葉を聞いて、ご主人がようやく「じゃあ先生、今度家内に聞かれたら、正直に言ってください。私たちも覚悟して、精一杯面倒を見ましょう」と約束をして、その会が終わったのです。しかし残念ながら、三日後に亡くなられるまで、自分の病状を聞くことはありませんでした。聞きませんでしたから、医者も言いません、そのまま寂しく亡くなっていかれました。ところがその後、毎朝ビハーラ病棟は、八時半からお朝事がありますが、二カ月半ぐらい、ご主人は、奥さんがいないにも関わらず、奥さんの亡くなった病棟のお朝事に参って来られました。私は聞きました。「よく続きますね」と言ったら、「何かここの病棟に来て、お参りをしないと、気がすまないんだ」と言っていました。二カ月半ぐらいたちましたときに、「やっとこころの整理がつきました」と言って、それからは一年に一度、来られるだけになりましたが、やはりこのご主人のこころのなかで、告知をしなかったことに対して非常に深い反省というか、後悔があったのではないかと思いました。
告知の問題は、私はほんとに大切な問題だと思っています。今は患者さん本人よりも、家族が告知を最初に受けるということ自体も、本来おかしいのではないか。医者はまず患者さん本人に、聞きたいか聞きたくないかと言って、そして聞きたいと言ったら言わねばならない。本人に言って、本人が了承したら家族にも告げるとのが、本当は順序だろうと思います。そういう順序については、今の多くの医師はあまり考えていないのではないかという思いがします。
㈪「ビハーラは身体的、精神的、根源的、社会的苦悩と共に、日々を送る場である」と書きました。病気になると、身体が痛みます。熱が出たり、倦怠感があったり、それこそいろいろな症状があるわけですが、身体だけ痛むかというと、そうではありません。精神的な痛み、こころの痛みも、たくさん起こってくると思います。
その次に「根源的」と書きましたが、今の医療関係者はあまりこの言葉を使わない人たちが多いのです。最近はスピリチュアルという英語をそのまま使って、「スピリチュアル・ペイン」と言います、病気、特に末期のガンであれば、スピリチュアルな苦悩があります。
それから社会的苦悩。家庭の主婦であるならば、家事ができない、育児ができない、会社員であれば会社に行けない、病院の入院費であるとか、さまざまな社会的苦悩を、病気一つによって家族全体が負っていくことが、社会的苦悩だと思うのです。
ビハーラは、身体的、精神的、そして根源的、社会的な苦悩を共に送る場であるということです。根源的苦悩については、あとで話をします。
㈫次に「患者中心の医療と看取りを、スタッフ全員でおこない、救いと癒しのケアを目指す場である」と。ビハーラ病棟は、患者さんを中心にケアを行います。医師も看護師も、栄養士や理学療法士、作業療法士、ボランティア、僧侶というのは、周りにいるのです。患者さんを中心に、患者さんの願いを、出来るだけ叶えてあげようという医療をするということです。医者も看護師も私たち僧侶も、みな同じ立場でかかわることになり、三角形の立場ではなく、チーム医療がビハーラ病棟の特徴です。なお実際に、一番かかわるのは看護師さんです。朝から晩まで、夜中中、患者さんの一挙手一投足を見ています。患者さんの全体を見ているのは、看護師さんですから、そういう看護師さんの指示に従って、医者が動くというのがビハーラ病棟です。全国からビハーラで働きたいという看護師が来ます。今は多くの地方病院が看護師不足なのですが、西病院も、階下の外科や内科などの病棟は看護師不足なのですが、ビハーラ病棟の看護師は、全国から、働いてみたいと来ます。ビハーラ病棟は、看護師のやりがいのある病棟だと思うのです。
次に「救いと癒しのケア」と言うことについて、癒しということを最近よく言われますが、癒しということは、一時的なものです。音楽を聴いて癒やされたとか、山へ行って、緑の空気のなかで癒されたとか、滝から出るマイナスイオンで癒されたということがありますが、それらは一時的なものではないでしょうか。それも大切なことです。
人生の意味を考え、そして生死解脱ということを目指していく、そしてがんになっても、いよいよいのちを終えていくような状態になっても、見捨てられることがない、必ず救われてある身であり、そして仏になる身であるという、一時しのぎでない安心、そして救いが与えられなければ、本当のビハーラケアにならないと、私は思っています。
ちょっと休憩をさせていただきます。