法話

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ビハーラと私 〜その3 生死の問題との関わり〜

 ビハーラ病棟における仏教者の役割の一つが、患者さんに寄り添い、傾聴することだと思います。特に仏教者として全ての人間の持っている根源的な苦しみ、スピリチュアルな苦悩に関わることであると思います。私は何のために生きるのか、価値ある人生とは、有用な人生と今の自分、死とは何か、死んだらどうなるのか。絶対的孤独からの開放などです。
 
 次にCさん,五十二歳の大工さんがいました、後に聞かせていただいた話では、学校を卒業して大工の見習いになりました。そして二十歳を過ぎて一人前になったころ、親方の世話で結婚したのですが、いつの時代からか、大酒飲みになり、またばくちが好きで、酒とばくちに明け暮れるような生活をしていたようです。そのため奥さんが精神的に病んで入院してしまいました。そういう親父を見て育ってきたから、娘さんは早々に家を出て結婚して家には寄りつかない。息子さんはしかたなく、親父の面倒を見ていますが、あんまり好きではないのですね。彼は孤独な人でした。この大工さんにしてみると、「自分は自分の生きてきたようにしかならないのだな」とあきらめかけていました。彼のところは誰も見舞いにも来ないのです。親戚も来なければ、妻や子供も来ない寂し毎日を送っていました。
 それで毎日何をしているかというと、テープで浪曲を聴いたり歌謡曲を聴いたりしていました。それで私が「あんた、お説教を聴かないかね」と言ったら、「聴きたい」と言いましたので、有名な布教師さんのテープがいろいろと発売されていますので、それを聴かせてあげたら喜んで聴いているのです。初めてお説教を聴いたようですけれど、それなりに考えているのだろうと思いました。ある日「木曽さん、知らない人の話だけでなく、あんたのテープはないのかね」と言われて、「俺のテープは売っていないけど、個人が録音したものならあるよ」と言ったら「そうかね。貸してもらえないだろうか」と言うから、「テープ貸してやってもいいけど、築地別院で五日間話した百二十分テープ5本、聞くのに10時間もかかるよ」と言ったら「聴く」と言って、三日ほどたって会いに行ったら、「二回聴いた」と言っていました。それで「どうだった」と聞いたら、「あの八十いくつのおばあちゃんが、がんで死んでいく話をしたでしょう」と言う。「あのおばあちゃんが、毎日、ほとけさまが一緒にいてくださると言って亡くなっていった。俺はうらやましく思った。俺のところは仏さまなど出てこない。俺、地獄へ堕ちるだろうな」と言うのです。仏さまと一緒という、おばあちゃんがうらやましいなと言って、自分のところには誰も来てくれない。それから私がいろいろな話をしましたら、後日「ドライブへ連れて行ってくれ」と言うのです。
 彼の具合が悪かったのですが、医者に相談して、看護師を連れ酸素を持って、三人でドライブに行きましたら、まず向かったところは、自分の生まれた家でした。農家で立派なお屋敷でした。門をくぐって奥へ入っていきました。玄関で出てきたのは、その家の奥さんらしい人でした。しかしその顔は、やっかいものが来たような、非常に嫌な顔をして、奥へ下がって行ったら、しばらくして男性が出てきましたから、お兄さんだなと思って見ておりました。玄関先で五分ぐらい話していました。家にあがらないのです。庭へちょっと回って家を眺めて、私の車に乗って来ました。どうした、「あがってくればいいじゃないか」と言ったら、「とても上がれるようなことをしてこなかった。親父の葬式のときでさえ、俺は酒を飲んだくれていた。兄貴や姉さんに迷惑をかけたから、最期のお別れを言ってきた」と言って来ました。
 それから自分の家へ帰って、大工道具を持って来ました。それから隣近所へみんな、あいさつをしに行ったのです。何をしてきたのかと聞いたら「いや、今まで隣近所にも、大変な迷惑をかけたから、謝ってお別れをしてきた」。こう言って車に乗りました。あと、私は行かなかったのですが、ほかのお坊さんが、奥さんの病院、それから娘さんの嫁ぎ先にも、行ったそうです。今までの自分の人生を振り返り懺悔しながら過ごした日々でした。六月の末になったら、いろいろな方がお見舞いに来られました。最期のお別れをしたということで、一度は会っておかなければいけないということかもしれません、お見舞いに来てくださいました。もちろん息子も娘さんも看病にくるようになりました。やがて彼は医師から説明を受け、肺がんがいよいよ進行し、悪くなったときに、「まもなく死なないといけない。やっぱり俺は地獄に行くのかな」とつぶやきました。私は、彼のお参りする姿を見ながら人間は変われるものだと感じていました。

 人間は生きてきたように死んでいくと、よく言われますが、彼は決してよく生きてこなかった、奥さんや家族にも迷惑を掛け、近所にも迷惑を掛け、いろいろな方々に迷惑を掛け、それこそ道楽をしながら、酒とばくちに明け暮れた人生でした。しかし最後にそのように締めくくり、自分の人生を総括していってくれた。地獄行きの自分と気づきながら、毎日お念仏も称えていきました。私はお浄土へ参っただろうなと思っているのです。
 
 次に死とは自然なものであり、出会いと別れ、そしていのち終わってほとけになると書きました。
 三十八歳の男性が、最近亡くなられました、亡くなる少し前に「木曽さん、俺、ばちが当たったのだろうか」と問いました。どうしたのか聞くと、「いや、実は先日、ある人が来て、おまえだいたい、三十八歳でがんで死ぬというのは、ろくな生き方してこなかったんだ。ばちが当たったのだと言われショックだった」と言う訴えでした。しかし私はそう思わない。「なんでがんになって死んでいかないといけないか、教えてあげようか」というと、「どうしてですか」と尋ねました。私は一言「生まれてきたからだよ」と言うと、彼はきょとんとしていました。生まれてきたから、いつか死を迎える。あなたはたまたま、三十八歳でがんという病気になって、そして死んでいく。べつにばちが当たった訳ではない。しかしその三十八歳で死んでいかなければならないことを、しっかり受け止めていってほしいと思ったことがあります。
 
 最後にDさんの話をさせていただきます。
 六十四歳の女性で、胃がんの手術をして、三年たって再発をし、また身体の様々なところにガンが転移した人です。前に話したように、ビハーラ病棟では入院相談をします。ほとんどの方は家族が来られます。しかしCさんは、自分自身で入院相談に来られました。後に聞かせていただきますと、子どもさんに恵まれずに、ご主人と二人暮らしで、ご主人が少し身体の容体が悪いので、自分で相談に来られました。「私はこのようながんで、いまこういう状況です」と、前の病院からの紹介状を持って相談に来られます。医師はその状態を聞きながら、あなたは今、何が望みですかと彼女に聞きました。
 Cさんは「最後まで自分の口からものを食べたい。そして自分の足でトイレに行きたい。こういうことが望みです」と言われました。そしていつも入院相談の終わりには「あなたの宗教は何ですか。ここはビハーラ病棟といって、仏教者のおられる病棟です」という質問をします。多くの方が正式な宗派の名称を答えられません。「私は門徒です」とか「うちは禅宗です」とかと答えられます。宗派の名前を言える人は、新興宗教の方の方が多いようです。この方は「うちはお東です」と答えました。医師は「よかったですね。今病棟の常勤のビハーラ僧は、お東のお坊さんですよ」と言ったのです。そうしたらDさんは、はっきり「私は坊さん好きではありません、嫌いです」と言いました。医師が「そうですか。朝八時半と夕方四時とお参りがあります」。「私はお参りには出ません」とはっきり言われたそうです。
 通常の入院相談の時は、医者と看護師、それから僧侶が同席し、三人で面接をするのですが、そのとき、たまたま僧侶がいなかったのです。ビハーラ病棟は常時僧侶のいる病院ですから、はっきり嫌いですとか、お参りに出ませんとか、言う人はあまりいません。だいたいの方が僧侶をあんまり好きではなくても、「気分のいいときはお話を聴きましょうか」というぐらいのお世辞を言ってくださるのです。しかしこの方は「嫌いです」と言われました。それから三カ月半ほど入院期間中、一度も参りませんでした。自分の足で歩けます、当初はお風呂も一人で入ることが出来、下の売店に買いものも行けるのですが、ほとけさまの前を通るときも仏さまへは顔を向けないで、反対を向いて歩いていかけました。私たちにはボランティア室という僧侶専用の部屋があるのですが、そこにカルテ簡単な写しがあります。Cさん用紙には、赤ペンで「お坊さんの訪室は控えてください」と、大きな字で書いてあるのです。だからその部屋は入られない。あいさつにも行けない。彼女は歩いて私たちの前を通りますでも一回も話もできない、お参りにも来ません。
 ところが、二カ月ぐらいたってから、看護師が私を呼び止めて、「○○さんの部屋に、今度行ってあげてください」と言うのです。「どうしたのか」と聞くと、「ご主人が脳梗塞で意識不明になって倒れられ、ひとりぼっちになって寂しいのです」と言うことでした。今まで頼りにしてきたご主人の意識が回復しません。そして脳梗塞はがんではありませんからビハーラ病棟に一緒に入院することは出来ません。それで、寂しくて話し相手が欲しいのです。私はたびたび訪室していろいろと話を聞かせていただきました。しばらくして何となく理解できました。彼女は今まで自分の力で生きてきた。主人と二人、一生懸命働いて、何の不自由のない裕福な生活をしてきた。人様に迷惑をかけたこともないし、世間のやっかいにもなってこない、自分の力で生きてきた、と言う思いの強い方だと言うことが。それで今さら坊さんやほとけさまのやっかいになりたくないという思いのようでした。しかしやがて少しずつ食事も食べられなくなる、動くことも困難になってきて、夫はもう回復しない、そして今まで築いてきた財産もお金も今の自分には役に立たない。それでもお参りはしませんでした。
 そのころ医師に自分のいのちのことを何回か聞いたのです。「私のいのちはあとどのくらいでしょうか」。予後告知を、強く希望されました。「主人はもう回復することはないと思う、私も末期のがんで死ななければならない。後始末をいろいろとしていきたい。自分が最後の始末をしなければならない」と言うのです。予後告知はあまりあてにならないので平素はほとんどしません。しかし医師は何度も訪ねられ、彼女の意志が固いことを知り言いました。「あなたのいのちは、月単位ではありません。もう週単位のいのちです」と、彼女は深いショックを受けたようです。その日の夕方です。私が四時のお参りの当番で行ったのです。私はその日、医師から告知の説明を聞いて「彼女の部屋に行ってください」と言われたので、彼女の部屋へ行きました。しばらく話をしているとき、「木曽さん、私、お参りできるかしら」と言われました。その時初めてお参りしたのです。それからちょうど二週間後に亡くなられました。二週間のあいだ、毎日朝晩、お参りに参加したようです。その間、私も三度訪室しました。一緒にお参りをして、手を合わせました。やがて亡くなられてから、彼女のお礼状が出てきました。看護師や医師など多くのスタッフに感謝の言葉が書いてありました。そして最後に「ほとけさま、ありがとう」と一言書き加えてありました。そして「自分の財産の一部をビハーラの仏さまに寄付してください」と書いてありました。あれほどお坊さん嫌い、ほとけさま必要ないと言っていた彼女が、最期は自分の大切な財産の一部をほとけさまに寄付させてくださいと言って亡くなって行かれたのです。
 
 ビハーラでの私の活動の一端を披露しました、他に失敗談もあります。最後に私が言いたいことは、今ビハーラ病棟だけでなく、多くの病院や施設で僧侶の訪問を期待していると私は思います。人間の生死の問題に正面から答えられるのは宗教であり、お念仏のみ教えであると思うからです。多くの方々が実際に苦しみ悩んでいる人と関わる体験が、布教の実践にも大いに参考になると思います。
(終了)