法話
お浄土への道
浄土や仏様のことを私たちは解りません。私たちは物事の判断を科学で行います。これを計量的思考と言います。全てのものを量り知るのです。長いか短いか、遠いか近いか、重いか軽いか、○か△か□か、赤か黒か白かなど物事を、顕微鏡や望遠鏡やコンピュターなどを使ってはかり知るのです。しかし正信偈の最初に「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とあるように、阿弥陀如来は科学では量ることのできない、無量であり、考えも及ばない不可思議なるものです。浄土も「無量光明土」としめされています。浄土真宗の教えが解らないという方々はこのことを知らねばなりません。
人間の力、科学では量ることの出来ないものをどの様にして知ることができるのでしょうか。仏さまを説いてくださったのは、お釈迦様です。正信偈に「釈迦の説かれたお経により、真実が顕かになる」とあります。私たちに解らない仏さまやお浄土はお釈迦様に聞くより他にないのです。
先日長永寺の本堂で葬儀が行われました。通夜の前日東京のある女性から電話がかかってきました。「もしもし、明日○○家の葬儀が、長永寺の本堂で行われますね。私は長岡へ行くのは初めてですが、お寺には同様にして行けばよいのですか。」と尋ねられました。私は「新幹線で初めて長岡駅に降りるのですか。」と聞きそれで、長永寺までの道順を教えてあげました。「まず長岡駅を降りたら、東口と大手口(西口)があります、東口ではなく、大手口へ降りてください。そこには大手通りというアーケード街があります、長岡のメーンストリートです。そこを真っすぐ歩いてきてください。10分ほど歩くと、アーケードが一旦途切れ、マイマイ姫(カタツムリの上に少女像)の像があります。その像を目印に、そこから二本目の道を右に回ってください。すぐに長永寺の参道が見えますから、徒歩で15分くらいですよ。」説明しました。それでも彼女は心配そうでしたので、長岡駅には、いつもタクシーが待っていますから、タクシーに乗り「渡里町の長永寺と言ってください。目を閉じていても寺に連れてきてくれますよ。」と教えてあげました。翌日タクシーで来られました。この方はまず長永寺のことをよく知っている私に道順を尋ねたことが正解です。私が丁寧に道順を教えたのですが、それでも不安だったので、タクシーに乗ったのです。お浄土への道は様々ありますが、すべての人が必ず行けるとは限りません。お釈迦さまは、阿弥陀如来の願いは女性も男性も老人も若者も身体の不自由な方も等しくお浄土に行く事の出来る道として、南無阿弥陀仏という乗り物を用意したのです。南無阿弥陀仏に乗るとは、お念仏の教えに遇うことです。それは南無阿弥陀仏のおこころを聞かせていただくことです。そしていま私の口から出ている「南無阿弥陀仏」の一声一声が「任せよ、必ず救うという阿弥陀様の呼び声です」今私の口から出ているお念仏は、理屈ではありません。事実なのです。このお念仏こそ、私が阿弥陀様にいだかれて、必ずお浄土に生まれる証拠なのです。お浄土への道は私が歩いて行くのではなく、仏さまの方で用意されているのです。「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめる我らをば 弥陀弘誓の船のみぞ のせて必ずわたしける」と親鸞聖人も述べておられます。