法話
いのちの循環
現代の社会状況をみると、今私たちの生活形態が大きく変わりつつあります。少子高齢化が進み、また孤独社会と云われ、家制度が失われ、家を守る、お墓を守るという気持ちが失われつつあります。子供に迷惑をかけたくないからと先祖代々の墓じまいを考え、人生の最後のけじめである葬儀も簡単にしたいなど。また自分は誰にも迷惑をかけずに生きてきたと云う人もいます。しかし一日たりとも人さまに迷惑をかけずに生きられる人はいるのでしょうか。皆、つながり合い、支えあっていかされているのではないでしょうか。
そして私たちのいのちは何よりも大切なものです。しかしこの「いのち」は私の力で生きてきたのでしょうか。両親をはじめ先祖代々多くの命が繋がって今ここにあるのです。そして生まれたその時より願われ、思いを込められて育てられてきた「いのち」です。今その親をモノのように扱って葬儀を行わない人がいます、そんなことが良いわけがありません。私たちは人生の節目で結婚式、卒業式など様々なセレモニーを行っています。近年はハロウィン、恵方巻など日本中で大騒ぎです。しかし大切な肉親の死を人間としてキチンとしなければなりません。科学が進歩し、賢いと思っている人は自分の考えが正しいと考え、仏様や浄土が解らないと言い、死後の世界の存在も否定します。また浄土や仏様は科学で証明することはできません。親鸞聖人は「お経によって真実が顕かになる」と述べています。稲垣瑞釼師は「仏は尊い、仏法は少しの誤りもない。経に書かれたことを自分のはからいを混ぜずにそのまま聞信すべきである」と述べています。仏法が解らないという人は「仏語」に従わないからであり、疑いが晴れないのです。「生死」の問題は科学や医学では解決しません。親鸞聖人は九十年の生涯を仏教の究明に尽くされました。そして阿弥陀如来の救いに遇われたのです。お念仏の働きによって全ての人は浄土に生まれると勧められたのです。死んだら終いではなく亡き人は仏となって守っています。仏壇やお墓に手を合わせるとき仏をおもい、亡き人を想い、今日一日を生かされている感謝の気持ちで生活することができるのです。