法話

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いつでもどこでも救いは届いている 〜いつでも、どこでも、誰でも必ず救う〜

 「南無阿弥陀仏」はインドの言葉を漢字に当て字したものです。現代の言葉では「いつでも、どこでも、誰でも必ず救う、この弥陀にまかせよ」という阿弥陀如来の誓いであり、呼び声です。
 いつでもとは昨日も、明日も、明後日も十年後もということですが、昨日は過ぎてしまっています。明日は当てになりません。いつでもとは今のことです。どこでもとは世界中どこも阿弥陀様は照らしてくださる光の働きですが、私のいる此処を照らしているのです。つまりお念仏は「今、此処の私を呼び続けているのです」親鸞聖人は阿弥陀様のご苦労は「親鸞一人を救うためのものであった」と喜ばれています。

 ビハーラ病棟に以前60才の男性Aさんが入院してこられました。非常に大柄で体格の良い方でした。しかし朝のお参りにもお茶会にも部屋から出てくることはありませんでした。
 個室を訪ねるといつも一人静かに本を読んでいました。言葉をかけてもあまり返事をしていただけませんでした。しかし彼はいつもひとりぼっちでどこか寂しそうでしたから、お話をしたいと思っていました。
たまたま病棟のお楽しみ会がありカラオケで歌うことになり、私は仏教賛歌の「みほとけにいだかれて」を歌いました。この歌は「阿弥陀様にいだかれてお浄土に生まれていく、うつくしい仏になる」という歌詞の4番まである賛歌です。
 私が歌うとみんなが口ずさんでくれました。そしてAさんもじっと歌詞を見ていました。そして歌詞カードをこっそりポケットにしまいました。終わってから部屋を訪問すると歌詞カードを見ながら涙ぐんでいました。「いい歌でしょ?」というと、「俺も浄土に生まれることができるのか?」と訪ねられました。「出来ますよ、お念仏の教えに出会えば」と答えました。それからAさんはお参りをするようになり、仏教の本を読むようになりました。
 Aさんは自分が今まで生きてきた人生を少しずつ語ってくれました。青年時代、暴走族仲間に入り少年院送りになったこと、成人してからもヤクザな生活を送り親や兄弟から見放され、刑務所暮らしもしてきた。でもそれから更正して20年あまり建設作業員として働いてきた。肝臓ガンになったけれど誰も頼りになるものがいない。一人で死んでいくと覚悟していたが、仏様にあって良かったと話してくれました。
 そんなとき受け持ち看護師が、息子さんが末期ガンでビハーラに入院していることを、母親に手紙を書いて送りました。Aさんの母親がビハーラに訪ねてきました。何年ぶりの親子の対面です。その母が「この子が仏様に手を合わせている姿を見て安心しました。思い残すことはありません」と涙ぐんでいました。どんな悪人でもお念仏の教えに出会ったとき救われるのです。

 60年間仏とも法とも解らない人生を送ってきても、今此処に届いているお念仏に出会ったとき阿弥陀如来の大きな慈悲にいだかれるのです。救いは常に私たちに届いているのです。