法話
あの世と仏の世
私達はこの世界生きていますそれをこの世と云い、亡くなった人をあの世へ逝ったと言います。先日ある住職からこのようなことを聞きました。門徒のお婆さんが相談に来て「私が亡くなっても家の墓には入りたくないのです」何故ですかと尋ねると「私は死んでまでいじめられたお姑さんとは一緒になりたくないのです、出来れば実家のお墓に入れてもらいたい」と答えられたということです。また先日ご門徒の94歳の老母が亡くなられました、その方のご主人は32歳の時戦死されています。お葬式の後で喪主さんが「母は、父さんと逢えるのでしょうか」と尋ねられました。どうしてですかと聞くと「父は32歳、母は94歳の老母です。あの世で会ってわかるものですか」と聞かれたのです。亡くなってからも、好きか嫌いか、若いか年寄りか、儲かるか損するか。旨いかまずいかなど自分の物差しで分け隔てする見方を迷いの姿というのです。仏様の世界にはそのような分別がありません。真実一如の世界です。仏法に遇わずに死んであの世へ逝くということはこの迷いの世界からまた迷いの世を繰り返すということです。
杉山平一という詩人の「生」という詩があります。
ものを取りに部屋へ入って 何を取りに来たか忘れて戻るときがある
戻る途中でハタと 思い出すときがあるが その時はすばらしい
身体が先にこの世に出てきてしまったのである
その用事は何であったのか いつの日か思い当たるときのある人は
幸福である
思い出せぬまま僕はすごすごとあの世へもどる
私は何のために生まれ、何のために生き、なぜ死なねばならないかと考えたことがありますか。そんなことは考えたことはないという方が多いかもしれません。然しすべての人に必ず死は訪れます。また毎日のように事故で亡くなる人があり、災害で亡くなる人もあります。不条理な死、それは老人から順番ではありません。若者でも幼児でも明日のいのちが保証されていません。すごすごとあの世へ戻ったらせっかく頂いてきたいのち意味が無いのではないでしょうか。一時も早く真実の教えに遇い仏の世界、お浄土に生まれる身にならなくてはなりません。しかし死んだらお浄土に生まれるということはありません。仏様に出会わなければなりません、しかし私達にはすでにお念仏が聞こえています。念仏は「まかせよ必ず救う」という阿弥陀仏の呼び声です。その仏様の呼び声が今すでにが届けられているのです。念仏をもうす人生は仏様と共に生き抜く安心の人生です。