法話
医療と宗教
今、ビハーラ活動など、医療と宗教を考える運動が医療関係者の中にも少しずつ広がっているようです。なぜ今日医療と宗教を考えなければならないのでしょうか。熱心な念仏者でもある田畑正久医師は「医師、看護師は、科学的思考で教育を受けてきているため、老病死の受容の発想がなく、健康状態に戻す治療という思考しかないような状態です。・・中略・・死にゆく道程をどう生きるか。死という現実をどう受け止めて生きるかが、医学界で問題とされるようになってきています。」と述べられています。私は25年以上僧侶として医療について考え、また医療者や僧侶とともに活動をしてきました。医学は日一日急速に進歩発展してきました。そして私たちに様々な恩恵をもたらしました。しかしある医師が「病院に来たらすべての病気が治るように思われている、まったく困った問題だ」と言われたことが印象に残っています。科学が発達し、医学が進歩しても老・病・死を解決することはできません。生死は一人一人の問題であり、私自身の問題です。2500年前お釈迦さまは自身の生老病死を見て出家され、仏教を開かれました。仏教の究極的な目的は生死解脱(生き、死ぬという問題の解放)です。そのために釈尊は80歳まで多くの人々に様々な教えを説かれました。それがお経となってインド、中国などを通して日本に伝えられました。日本に伝来して間もなく、寺院の中に病人を見守る場や、老人を収容する施設も作られました。残念なことに明治以来の近代医学の中から宗教的なものは排除されてきました。そして多くの僧侶も医療に関わろうとしませんでした。しかし世界の多くの国では病院の中に宗教的施設が設置されていることが通常です。ようやく日本の医療者も宗教の必要性に気づき始めたのではないかと思います。このような現状で僧侶がいかに医療に関わるか大きな問題です。ただ僧侶であるからといって病人に関われるわけではありません。今、僧侶自身の生死観や行動が問われているのです。長岡を中心に医療と宗教・生死を考える医療者・宗教者・一般の市民が連携して会合を続けています。皆様のご参加を(問い合わせは長永寺まで)