法話
生死の自覚 〜尊い命であるが、はかない命であるということ〜
お釈迦様は29歳の時、自らのいのちを見つめ、生死を自覚して出家されました。この命はかけがえのない尊い命であるが、しかしはかない命と生死無常を自覚されて出家し一人厳しい修行をされました。私たちも自分のいのちをなによりも大切なものと自覚していますが、はかないものとは思っていないのではないでしょうか。蓮如上人のご文章に「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず・・・・・されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」と述べられていますが、私たちは我が抜けてしまって、人は先、人が先になり、明日も明後日も私は大丈夫と思っているのではないでしょうか。
ビハーラ病棟に50代の男性が入院してきました。彼は会社を興し成功した人物です。今まで会社のため、社員のため、また社会のためと精一杯忙しく働いてきました。しかし数年前肝臓ガンが見つかり様々な治療をしてきましたが、治療の甲斐無く黄疸もでて、末期の状態でビハーラ病棟へ入院してこられました。しかし毎朝のお参りには参加されませんでした。今までお参りするような時間も余裕も無かったのです。その彼が一泊2日で自宅へ帰ってきました。それから毎日朝のお参りに出るようになったのです。彼に聞くと自宅に帰って仏壇にお参りすると一冊の経本が見つかった。そしてその経本には沢山の書き込みがありそれはお祖母さんの文字だそうです。自分のお祖母さんが大切にしていた、仏さまに教えを聞いてみたいという気持ちになったそうです。自身の死を深く自覚したとき、仏の教えに出合う縁がめぐってきたのです。しばらくして彼は、いのちのあるうちに仏教に入門したい、その為に法名をいただきたいと申し出たのです。早速手次のお寺様に病室で帰敬式をしていただき法名をいただきました。彼は非常に喜んでくれました。それから徐々に状態が悪化していきましたが最後まで精一杯生きられてお浄土へと旅立たれました。
仏教とは生死を超える教えです、私たち浄土真宗の教えはお念仏一つで私のいのちの問題が解決するのです。病気が治るのが真の利益ではありません。病気を乗り越える力を与え、生の拠り所となり、死の帰するところとなるものが真実の宗教です。