法話
亡き人を思う 〜お墓に話しかけることとは〜
昨年「千の風になって」がクラシック音楽では異例のミリオンセラーとなり大ヒットを記録しました。それは秋川さんの歌声が素晴らしい事と共に、この曲の歌詞が多くの人びとの心を捉えたからに他なりません。ところで現代は科学万能主義で眼に見えるもの、証明出来るものは信ずるけれども眼に見えないものは信じないという風潮があります。人間死んだら終い、何もないと考えている人が多いと思います。しかし一方で亡き人はどこかで見守ってくれている。そして私も死んで無になるのではないという気持ちがあるのではないでしょうか。
ご門徒の女性がある日尋ねて来られました。私は亡き夫の墓に毎月のようにお参りし、お墓の前で夫に話しかけていました。しかし最近テレビなどから流れる「千の風になって」を聞く度に「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、死んでなんかいません・・・・・」の歌詞を聞く度に考えさせられるのです。「今私の夫は何処にいるのでしょうか?」私はこのご婦人に二つの事をお話ししました。お墓は単なる石ではありません、またそこに埋葬された遺骨ももちろん単なるものではありません。
私は30数年前最初にインド仏跡参拝に出かけました。12日間お釈迦様のみ跡を慕い印象深い旅行でした。その最後にニュデリーにあるインド国立博物館に見学に行きました。仏教の展示室の奥に、透明なケースに収められた人間の骨が三重の壺と共に安置してありました。「これは何ですか?」とガイドに尋ねると「遺跡から発掘された本物のお釈迦様の遺骨、仏舎利です」と聞かせられました。私は感動のあまり思わず土間に正座してお参りしました。12日間お釈迦様の遺跡を参拝して、最後にお釈迦様に会えたような気がしたからです。私にとってその仏舎利は単なるお骨ではありません。なつかしいお釈迦様そのもののような気がしました。貴女がお墓にお参りして、ご主人にお話しされている事は素晴らしい事ではありませんか。お墓の前はなつかしいご主人の遺骨が納められているところです。
しかし貴女のご主人はいのち終わって骨になったのではありません。お念仏の働きのよって仏に成られたのではないでしょうか。だからお墓の中には居られません。仏さまになって、いつでも何処にでも居られるのです。貴女がお念仏称えるとき仏さまと一緒です。その仏さまとご主人はいつも共にいてくださいます、見ていてくれます。お墓の前で念仏するとき、仏壇の前でも、たとえ床の中でも何処にいてもお念仏称えるとき、仏さまと共にご主人もいてくださるのです。
また「風のすがたは見えないけれど、風の働きはなびく草の上に見える」という言葉があります。風は形も色もありませんから、眼で見ることは出来ません。しかし風の働きによって風を知ることは出来ます。仏さまはわたしの眼では見ることが出来ません。しかし私の口に声となって現れる働きとなって下さいました。お念仏称えるときいつでも仏さまと一緒です。そこに亡き人もおられます。南無阿弥陀仏