法話

法話

いのち輝いて 〜頂いた命、お念仏の教えに遇い、輝きましょう〜

飛び立った飛行機

 ある冬、私の住む新潟から札幌別院へ布教のため出講するときの事です。午前中からの行事ですから前日に札幌へ到着するように新潟空港を夕刻出発する飛行機を予約しておきました。あいにくその日は朝から雪が降っていました。
 新潟空港に着き出発の手続きをしました。ところがこの便には条件が付いているとのことです。それは現在札幌千歳空港が雪で閉鎖中で、もしこのまま着陸出来ない場合は仙台空港か羽田空港に降りることになり、さらにどちらへ降りてもその後は乗客責任になるとのことです。困りました、この便に乗らなければ他の手段はありません。札幌別院に連絡したり、仙台や東京に着いたときはどうしようか・・・などさまざまな事を考えながら飛行機に乗り込みました。機内でも約一時間あまりいろいろなことを心配し、全く落ちつきません。ようやく千歳空港の上空にさしかかったころ、飛行機は大きく旋回しました。もしかして戻るのか?と思ったとき、「現在千歳空港は除雪作業中で、このまま上空で旋回しながら着陸許可を待ちます」と機長よりアナウンスが入りました。仙台や東京へ戻らなくてよかったと一安心しました。それから四十分ほどすると着陸許可が出ました。
 しかし外気温はマイナス7度、窓から滑走路を見るとアイスバーンです。飛行機はスリップしないのだろうか、無事に着陸出来るのだろうかと、また心配になりました。飛行機は目的地を目指して飛行し、いつか必ず降りねばなりません。同じように、私達も生まれたということは目的地を目指して飛び立った飛行機です、いつか着陸していのち終わる日を迎えます。行く先の定まらない飛行機には安心して乗っていることが出来ません。行く先があきらかになっても、確実に到着できなければ安心できません。同様に私達は何のために生まれてきたのか、どこへ向かって生きているのかを考えねばなりません。それが解らない人は、今日一日を本当に安心して生きることが出来ません。多くの人がそれを見いだせないままにいろいろなものに頼って生きているのではないでしょうか。お金や財産、地位や権力など、そして家族や自分自身の健康も支えです。しかしそれらはみんな移り変わり、やがて失っていくものです。真の支えになるものではありません。
 親鸞聖人は二十九歳の時のことを「雑行を棄てて本願に帰す」と述べられています。二十年間の自力修行を棄てて、阿弥陀仏の本願を依りどころとして生き抜く人生を歩まれたのです。そして「世間のものは皆移り変わり消滅していくものである、しかしお念仏は永遠に変わらない真実である」と言われ、そのお念仏を依りどころとして九十年の真実の人生を歩まれました。

真実への道

 毎年お彼岸になると日本中でお墓参りの風景が報道されます。春秋の二回、先祖を想い墓参りをすることは美しい習慣です。しかしお彼岸は本来墓参りだけの期間ではありません。この世界を迷いの岸・此岸といい、彼岸とは彼の岸、悟りの世界を顕しています。お彼岸は私達が迷いの世界を離れて、悟りの世界を目指して生きていく人生を歩むことを聞かせていただく期間です。しかし現在、多くの人々はこの自分の住む世界が迷いの世界とは思っていません。むしろこの世界こそ真実の世界と考えているのではないでしょうか。
 一方、毎日のように起こる事件を見ると、現代社会が素晴らしい世の中とはとても言えません。なぜ仏教ではこの世を迷いと説くのでしょうか。それは私たちが持っている煩悩によるのです。今の世の中は飽くことを知らない人間の欲望追求の姿に満ちています。もっともっと豊かになるためにと、目を覆うばかりです。その結果としてかけがえのない地球が大きく傷ついています。また自己中心の人や拝金主義が蔓延しています。お金のために簡単に人を殺したり、毎年多くの人が自殺に追い込まれています。どうしてこんな世界になってしまったのでしょうか。こんな時代だからこそ仏法に遇い、真実を求めて歩む道を私たちは多くの人々に語らねばならないと思います。皆がお念仏の教えに遇うことによっていのち輝く人生を歩み、真実に生きる道を見いだせると思います。

お念仏と共に生きる

 私の寺のご門徒Yさんは夫婦で門徒推進員となり、お念仏を喜ぶ生活を送られています。Yさんは九十六歳のお母さんと三十六歳のダウン症の子どもさんを介護しながら精一杯明るく生き抜いておられます。そのYさんが教区の仏教婦人大会で体験発表をされました。その一部を紹介しましょう。
 
 「体験発表など話すことが苦手な私にとても出来るわけないと思ったのですが、今回のテーマ『いのち輝いていますか』の問いかけに、なぜか心を動かされるものがありました。・・・中略・・・私の母は九十歳くらいまでは健康そのものでしたが、九十二歳の時、大腿骨骨折をして、それを機に寝たきりとなってしまいました。今はショートステイ、ディサービスを利用しながら在宅介護をしています。寝たきりになって五年、夢と現の混同する中でほとんど眠っているような日々を過ごしています。そんな母も時々ハッとするほど精気を取り戻すことがあり、そんな折には、母の言葉を聞き逃してはならないと思うことがあります。
 先日ショートステイ先の職員から『最近おばあちゃんがしきりに早くお寺に連れて行ってください。お説教が始まってしまいます。と真剣な顔で言われるのですよ』と聞かされました。母は若い頃から聞法を楽しみにしている人でしたが、旅行も外出もあまり好まなくなった晩年は、ただひたすらお寺の聞法会を待つようになっていました。そんな母も身体の衰えから『今後はあなたが聞かせていただきなさい』と私に勧めてくれ、自分はテレホン法話や書物を通じてみ教えをいただいていました。母の人生は決して平穏だったとは言えず、母にとって仏様はきっと肉親にも勝る存在であり、救いであったろうと、今ははっきり思えてくるのです。・・・中略・・・多くの方々のお陰で今こうして私もお念仏を喜ぶ身にさせていただきました。そして母の口癖のように言っていた『仏様のお陰、仏様と一緒』という言葉は、母から私へのメッセージとして深く心に刻んでおきたいとしみじみ思うのです。これからも、小さな幸せを拾いながら、み仏様への感謝の日々を生きていきたいと願っています」と自らの体験を述べてくださいました。
 先日もYさん宅にお参りに寄せていただくと、ほとんど判らなくなっているはずのお母さんが「お経の声がするから起こしてくれ」と言われていました。今も家族でお参りをし、お念仏と共に日暮らしをしておられます。
 
 お念仏をいただいてもこの人生は、さまざまな苦悩に出合わねばなりません。思うようにならない苦難の人生です。しかしその苦難を乗り越えて力強く生き抜くことの出来る道が開かれてくるのです。お念仏の人生は私たちに喜びと感謝の日々が与えられます。