法話
私と浄土 〜お念仏を戴いて生き抜いた私の還るべき家が『浄土』なのです〜
浄土真宗は阿弥陀佛の「すべての者を必ず救う」という願いによって出来上がった「南無阿弥陀仏」、お念仏を自ら信じ、毎日をお念仏と共に生き抜き、この世のいのち終わるとき阿弥陀仏の浄土に生まれ、真実の悟りを開かせて頂くみ教えです。
しかし多くの人は念仏を先祖供養の呪文のように考えたり、自分達のさまざまな願いをかなえるための道具にしてはいないでしょうか。念仏は私を必ず浄土に生まれさせ、仏にするという阿弥陀仏の誓いです。お念仏に遇うということは浄土に生まれ、仏になる人生を歩むことです。しかしこの身が終われば何もないと浄土を否定したり、また逆に永遠に残る魂が存在すると考える人が多くいます。釈尊は死後も永遠に霊魂のようなものが残り続いていくということ、また死んでしまえば何もないという両方が間違った考えであると説かれました。そして全てのものは因と縁によって生滅変化することを説かれました。つまりこの私の今日の行いにより自らの未来が決定すると説くのです。自分自身の今の生き方が問われているのです。私たちはお念仏を戴いて、お浄土へ生まれさせていただく身にならねば成りません。
ところで浄土とはどのような世界でしょうか。「浄土は存在しない」と思っている人も多くおられると思います。しかしお浄土とは私にとって真実の家なのです。私たちは生まれてきたからには、いつか必ず死を迎えます。しかし死によって全てが終わるのではありません。お念仏を戴いて生き抜いた私の為にすでに還るべき家が用意されてあるのです。阿弥陀様と共に永遠の世界に生まれさせて戴く事が出来るのです。そしてこの還る家は今生きている私の支えともなっているのです。毎日の生活の中で「行ってきます」と出かけて、働いたり、遊んだりすることが出来るのは「ただいま」と安心して帰る家があるからです。私たちの人生はいつ何が起こるか解りません。いつも私を支え、何があっても私のよりどころとなる世界それがお浄土です。お念仏いただくという事は、私の真実の家があきらかになり、毎日を安心して生き抜く人生を送ることです。
十年あまり前の話ですが、検事総長を経験した伊藤英樹さんが『人間死んでゴミになる』というタイトルの自叙伝を出版し、ベストセラーになりました。それを末期ガン患者の鈴木章子さんという方が病床で読みました。鈴木さんは念仏者です、阿弥陀様の教えに生かされて四十七年の人生を閉じられた方です。彼女はガンに冒された闘病生活の中で沢山の詩を残しました。それが死後『ガン告知のあとで』と題する本となって出版されました。その詩の中に「未完のままに」と題する一遍があります。
伊藤英樹様「人間死ねばゴミになる」
残された子に 残された妻に
ゴミを拝めというのですか
あなたにとりまして 亡くなられた
お父上 お母上も ゴミだったのですか
人間死ねば佛になる この一点
人間成就の最後のピースでしたのに
自分がただの粗大ゴミとして逝ったのですね 未完のままに
鈴木章子さんは末期ガンの病床でお念仏という一番大切なものに出遇われたのです。人間として生まれたということは、お念仏のみ教えにあい、仏になる人生を歩むことです。それが人間としての完成なのです。末期ガンという苦悩と苦痛の中でもお念仏に出会った喜びを沢山の詩として残しました。そして「念仏は私にただ今の身を納得していただいてゆく力を与えてくださる」とがんと共に生き抜かれた四十七年の人生でした。
私が救われるということはどの様なことでしょうか。お金が、ものがあると救われるでしょうか。衣食住が全て整っていても自殺してしまった老人がいます。彼女は「自分を信じ、心から抱きしめてくれる者が無いから生きてゆく意味がない」と言って自らいのちを絶ちました。誰にも相手にされない、認められない、ひとりぼっちで私たちは生きてゆけないのではないでしょうか。お念仏に出会うと言うことは、私を決して見捨てることのない真実に出会うと言うことです。いつも仏様と一緒の人生を生き抜かせていただくのです。そしていのち終わるときお浄土という私を待っていてくださる世界に生まれさせていただくのです。
鈴木章子さんの「死」という題名の詩を最後に紹介しましょう。
「ただいま」と戸をあけたら
「いやあ おかえり」と
みんなが声をかけてくれそうな
死とはそんな気がします
“いのち分けあいし者
また再び ここに会える“
どこかで聞いた言葉だけれど
まさにピッタリ…
お念仏をいただいた者はお浄土でまたあう世界を持っているのです。
お念仏の浄土は私の生きるよりどころであり、また死の帰する所でもあります。