法話

法話

仏様は本当にいるの? 

若い門徒の方が、先日私に「浄土真宗はわかりやすい教えでよかったと思っていました。なぜなら、お念仏一つで救われる教えだからです」その事を聞かせていただくことが大切だと云われ、お寺の法座にお参りするようになりました。でも聞かせていただくと段々解らなくなりました。「お念仏を称えて救われるのではない。阿弥陀様の大きなお慈悲が私に働いている、その阿弥陀如来の働きによって救われる」と、教えられました。しかしまず、阿弥陀様が解りません、その働きをどうしたら解るのでしょうか?

私たちは科学的な考えで物事を判断します。その科学的な考えを計量的思考といいます。ものを大きいか小さいか、遠いか近いか、重たいか軽いかなど、また丸か四角か三角か、あるいは赤か黒かなどで証明することです。でも阿弥陀如来は無量寿・無量光の仏様です、計ることが出来ない、不可思議な存在です。科学の物差しでは解らないのです。その仏様をどのように知ることが出来るのでしょうか。しばらく前になりますが、北海道のお寺の報恩講法話に出かけました。二十一日間七ヶ寺の長い報恩講でした。美瑛のお寺に三日間お世話になりました。二日目の朝五時前に目が覚めてしまいました。それで美瑛の丘まで散歩に出かけました。しかし丘に近づくにしたがって濃い霧が出てきました。きれいな丘も山も何も見えなくなりました。それでもしばらく丘に登っていくと何かエンジンの音が聞こえてきました。こんな朝早くから農家の方は働いているのだと思って近づくと嫌なにおいがしてきました。消毒のにおいです、あわててお寺に戻ってきました。

霧で何も見えないとき、きれいな丘や山並みは無いのではありません。霧で隠れているだけです。私たちの目をお釈迦様は煩悩の眼と見られています。自分中心で真実を見ることが出来ないのです。1秒先もわかりません、壁の向こうもわかりません、しかし私は正しく見ていると思っているのです。人間を無明の存在と見られたのです。無明とは真っ暗闇ということです。真実を見る眼を持たないのです。しかし真っ暗闇の中でも音は聞こえてきます。阿弥陀如来は声となって届いているのです。「南無阿弥陀仏」は「われに任せよ、必ず救う」という阿弥陀様の呼び声です。今私の口から出ているお念仏の一声一声が仏様が私に働いている証拠です。