法話

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私と仏教 〜親鸞聖人の生き方に学ぶ〜

 仏教を理解しようとする時、自分の人生に仏教は必要だろか、仏教は価値があるのだろうかと考えると思います。しかし世俗的な価値を仏法に求めてもなかなか見出すことは難しいと思います。釈尊は世俗的なあらゆるものは満たされた生活を送られていました。釈尊の求めたものは真実の人生です。自らの願いや欲望を満たす事を仏教に求めてもかなえられません。では仏教をどう理解すれば良いのでしょうか。仏法を生きている素晴らしい人との出会いを通して仏教に近づくことが出来ると思います。しかし残念ながら僧侶や念仏者の中にそのような人が少ないのが現状です。私達はまずお念仏を中心に生き抜かれた、親鸞聖人の生き方に学ばねばなりません。

 お念仏のみ教えに遇うとはどのような意味を持つのでしょうか。親鸞聖人は「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあわれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する」と述べておられます。つまり阿弥陀如来は私達を苦悩から救うために、今から2500年前にお釈迦様となってインドに誕生し、阿弥陀仏の本願を説かれたのであると述べられています。阿弥陀仏の本願こそ仏教の神髄だと述べられたのです。阿弥陀仏は光明無量、寿命無量といわれる仏さまです、人間の知恵や分別を超えた、はかることの出来ない「光といのち」の存在です。それは科学の知識を超えた、私達の把握することはできない世界です。そういうとそういう物は信じられないと云いますが、仏法を学び・み教えを聞き続けていくと、その光明無量のはたらきに照らし出される自分の姿がはっきりしてきます。光りに遇うと陰が出来るように、仏さまのみ教えに遇うと自己中心の考え方が破られ、真実の世界が感じられるのです。「阿弥陀如来の本願の働きを摂取不捨」と表されます。阿弥陀如来は私達を救うと願い、常に呼び続けているのです。その呼び声が「南無阿弥陀仏」です。私達は阿弥陀仏の慈悲に生かされ、その光りに照らされ、育てられているのです。私を見捨てることのない大いなる力それがお念仏です。

なかなか思い道理にならないこの人生を真実に支えたれて生き抜く教えこそ仏教であり、お念仏のみ教えです。