法話

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浄土に生まれる 〜お浄土は光となってこの私の煩悩の身に真実に気づけと働いているのです〜

 彼岸とは「彼の岸」お浄土のことです。ただ先祖の墓参りをすることがお彼岸ではありません。迷いのこの世から悟りの彼の岸、浄土に至ることを聞かせていただくことがお彼岸です。
 浄土真宗はこの私がお念仏の信心を得て、今仏になる身に定まり、いのち終わって浄土に生まれて仏になるというみ教えです。しかし多くの人が人間は生きている今だけ、死んだら終い、何もないと考え、お浄土や仏様を信じられないのではないでしょうか。浄土や仏様は私たちの理解を超えた存在です。その浄土や仏様をどのように味わったらよいのでしょうか。浄土とは真実の世界、清浄なる国土という意味です。多くの人がこの世こそ真実であると考えていますが、仏様はこの世は穢土である。つまり汚い、濁った世の中であると説かれています。私たちの住んでいるこの世の中は、私たちのむさぼりや怒りや愚かさの煩悩で濁っているのです。

 先日早朝長岡から東京へ車で出かけました。新潟県と群馬県の県境にある長さ十一キロメートルの関越トンネルを過ぎると霧が濃くたちこめていました。ライトをつけながら慎重に運転しました。しばらく走って行くと霧が晴れて青空が広がり、太陽が輝いていました。私が真っ白な霧の中で「この世の中には青空は無い、太陽も無い」と言ったらおかしいでしょう。霧が晴れたらそこには青空があり、太陽が輝いているのです。煩悩で濁って真実を見ることが出来ない私たちが浄土や仏様を否定することは出来ません。親鸞聖人は浄土を無量光明土、計り知れない光の世界であるとお説きくださいました。お浄土は光となってこの私の煩悩の身に真実に気づけと働いているのです。光は闇を破る働きをします。私の煩悩の闇を破って真実を顕らかにする働きです。私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると考えていますが、鏡を使わなければ自分で自分の顔さえ見ることが出来ないのです。真実の光に照らされてはじめて我が身が知らされるのです。
 また光はあらゆるものを育てています、昨年は十年ぶりの冷夏でお米が不作でした、稲の育つ大切な時期に太陽の光が充分でなかったからです。お浄土の光は私たちを人間となれ、仏となれと育ててくださっているのです。法然上人は「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ」と歌われました。今、夜空に月が輝いていると思ってください。その月は私の家にも皆さんの家も届いて、全ての人を照らしています。例えばグラスに水を満たせばこのグラスの中に月が写ります。空の彼方にたった一つ輝いている月が私のグラスにもあなたのグラスにも同じ形で同じ色で届いています。しかしこのグラスに蓋をしたらどうでしょう、届いている月が見えなくなります。お浄土の光は私にも皆様にも等しく届いているのです。しかし私たちはお浄土や仏様を否定してきたのではないでしょうか。丁度私のグラスに届いている月に蓋をしているように、しかしその私が今お念仏を称えているのです。確かに光に育てられいたのです。

 またお経に阿弥陀仏の浄土は西にあると説かれています。なぜ西なのでしょうか。親鸞聖人は中国の曇鸞大師を讃える和讃の中で「世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆえをとう 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある 鸞師こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」と説かれています。
 これは魏の国王が曇鸞様のお寺に訪ねてこられ、お浄土について質問をされました。お浄土があるかないかという質問ではありません。国王はお経は真実が説かれています、そのお経の中で浄土を「広大で果てしがない世界である」と説きながら一方で「西方浄土」と説かれるのは何故ですかと問われたのです。曇鸞様はお浄土は計り知れない広大な世界であるが、お釈迦様は凡夫の私たちに合わせて西方と示してくださったのですと答えられました。一日の始まり太陽が東から昇り一日の終わり西に沈みます。西方とは方角ではありません。私たちの人生の終わりに生まれて行く世界を指し示してくださったのです。先人は「帰る家は帰ってからだけ役に立つのではない。今の私を支え続けている」と述べられています。
 
 浄土は私の人生の帰するところです。しかし「ただ今と」帰る家があるから私たちは一日働くことが出来、学ぶことも、遊ぶことも出来るのです。私たちの人生も必ず終わりがきます。その時待っていてくれる世界が浄土です。そして今この私が日々安心して生き抜く支えとなって働いている世界がお浄土です。