法話

法話

救いは今、私に届いている 

少し前、ビハーラ病棟に私の知り合いでお念仏を喜ぶご門徒が入院して来られました。このAさんは若いときからお寺にお参りし熱心に聴聞された人です。私の法話も何回か聞いていただきました。入院してしばらくはお参りにも出てこられましたが、ベッドから起きることが出来なくなり、寝たきりになりました。私は病棟に行くと必ずAさんのベットサイドでお話をさせていただきました。「具合どうですか?」と尋ねるといつも「お腹が痛いなど」苦痛を訴えていましたが、「もう仏様におまかせです」と言われ、私も「そうですね。お念仏申しましょう」とお念仏を勧めていました。いつもそれに頷いておられた方です。しばらくは四人部屋で落ち着いた日々が続いていましたが、先日朝のお参りの当番で病棟に行くと、医師から「木曽さん、昨夜からAさんが呼吸困難になって個室に移りまさした」と言われ、私は「お話はできますか?」と聞くと「まだ大丈夫です」と言われたので、すぐ病室を訪ねました。Aさんの耳元で「苦しいですね。でももうおまかせですよ」というと、「おら苦しい、死んでしまう、背中たたいてくれ」と何度も訴えられました。しばらく背中をたたいていましたが、もう一度「もう仏様におまかせしましょう。お念仏ですよ」と言うと「おら死んでしまう、背中たたいてくれ」と訴え続けられました。しばらく背中をさすったり、叩いたりしていましたが、お参りの時間になりましたので、部屋を後にしました。仏堂でお参りの最中もAさん様子が気になりました、苦しくてお念仏どころではない姿に接して、人間最後はどのような死を迎えるか解らないものだなあ。しかしお念仏の教えは臨終の善し悪しは問わない教えだった。どのような死を迎えても安心の教えであった。「信心の定まるとき往生定まる」親鸞聖人のお言葉がしみじみ味あわれたことでした。阿弥陀如来の「必ず救う、われに任せよ」と来てくださっている教えです。