法話

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悪人が救われるとは 〜阿弥陀如来から見抜かれたわが身〜

 浄土真宗を開かれた親鸞聖人の教えに「悪人正機説」があります。歎異抄第3章に「善人なおもって往生をとぐ いわんや悪人をや」と語られている親鸞聖人の真意は何処にあるのでしょうか。ただ単に「悪いことをしたものが救われる」というような表面的な意味では決してありません。親鸞聖人の時代にもそのような思いから悪を行うものが出てきたからこそ歎異抄に説かれてあるのです。

 まず文章の当面の意味をお経の中の譬えで考えてください。
「あるところに7人の子供を持つ母親がいました。7人のどの子供も同じく愛情を注いでいます。しかし1人の子供が熱を出して苦しんでいる時、母はその子供に特別手を掛けて愛情を注ぎ看病します」またこの様な譬えもあります。
「今目の前の海で舟が沈没しました。岸から助け船を出して溺れている者を救わねばなりません。その時岸に向かって泳いでくる者や浮き輪に捕まって浮いている者より、今沈みかけている者を先に助けなければなりません」悪い者を仏さまはより慈悲をかけて救うといわれたのだという解釈もあります。しかし親鸞聖人はこの第3章の中で「自力作善の人」と「他力をたのむ悪人」ということを言われています。善人とは自分はいつも良いことをしている、立派な人間だ。そして自らの力で悟りを開ける。仏さまの力は必要ないと考えている人です。悪人とは自分は真に善根功徳を積むことは出来ない。縁に触れたらどのような悪を犯すかも知れない身であり、自らの力ではとても悟りを得ることは出来ないと気づかされて、阿弥陀如来の本願の働きにまかせきっている人を云うのです。自力作善の人は阿弥陀様から逃げている人です、そのような人でも阿弥陀様はすくい取ると働いています。
 私達は阿弥陀如来の働きに遇って、念仏する身に育てられたのです。

 また親鸞聖人の云われる善悪とはどのようなものでしょうか。
世間で「あの人は悪い人だ」という時は法に照らして罪を犯した人を指して云います。又道徳や世間の物差しをもって人の善し悪しを判断します。しかし法律的な罪は見つからなければ罰せられることはありません。道徳などの尺度は、人により国により時代により変わるものです。親鸞聖人の善悪の基準は絶体なるもの、仏さまから見た私とはどのような人間であるかを問題にしているのです。親鸞聖人は修行し学問を積んでも悟りを開くことの出来ないわが身、むしろ修行すればするほどわが身の罪悪性に気づかされた自身を見つめられた末のお言葉です。阿弥陀如来から見抜かれたわが身は悪人でしか無い事に気づかされるのです。光に会うと陰が出来るように、仏さまに触れるとわが身の真の姿に気づかされるのです。しかしその私を必ず救うと誓い呼び続けていられるのが念仏の働きです。

悪人正機とは私が阿弥陀様の救いの目当てであるということです。