法話

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ビハーラとは 〜その1 老と病と死を目の前にして〜

 長岡西病院での活動の一端をご報告させていただきます。
 ビハーラとはサンスクリット語で「精舎」「僧院」を表す言葉です。それから転じて、心身のやすらぎ、くつろぎ、休憩の場所などをいみする言葉になりました。ですから、ビハーラ活動というのをここで直訳をすれば、「寺院活動」と言ってもいいわけです。お寺がビハーラという意味もあるわけですから、私は広い意味で言えば、あらゆる寺院活動をビハーラと言ってもいいと思っています。
 そのなかで特に医療や福祉に携わる活動を、浄土真宗本願寺派では「ビハーラ」と名付けて、他に病院や施設だけでなく、ご門徒の自宅を見舞うこと、また他のいろいろな医療や福祉や介に関わる活動を「ビハーラ活動」と称してよいと思います。そのような広い意味でのビハーラ活動ということも大切なのですが、今日、私が特にかかわります、狭い意味での「ビハーラ活動」ということを、お話させていただきます。
 「ビハーラ」という言葉は、もちろんサンスクリット語で古くからあるわけですが、現代用語の辞典などに「ビハーラ」という言葉が出てきますのが、まだ十五、十六年前からだと思います。二十年数年前に、佛教大学の研究員をしていました田宮仁先生が、また当時「仏教ホスピス」という言葉があったのですが、「仏教」と「ホスピス」というキリスト教的な用語を重ねて使うのはどうかということで、サンスクリット語のなかから「ビハーラ」という言葉を見つけました、ホスピスに代わる用語として「ビハーラ」ということを提唱しました。しばらくたって、本願寺派でもビハーラ活動が始まりましたときに、その狭い意味から、私が前に述べた広い意味で、ビハーラということも含めて使うようになってきたわけです。そのようにして現在の活動に至っています。

ビハーラとは

 ビハーラ病棟に入院される方はお年寄りだけではありませんが、七十、八十代という方が多く入院されます。ですから老と病と死を目前にした人、今現に老病死の苦悩の中に生きる人たちに対して、私たち僧侶はどうかかわるべきなのかを考え行動することが大切であると思います。多くの人たちは、坊さんは死後かかわるものであると思っておられる人が、今でも多いと思います。そういう死者儀礼、死後の供養というものと思っている多くの人たちに、本来、仏教は生老病死いのちの全てに関わるものであるということを、私はビハーラ活動を通して実践していきたい。そういうことが、私がビハーラにかかわった、おもな目的です。そして病院に入るとき、袈裟・衣をかけて、まったく違和感がない、そういう社会風潮にしたいと思っています。
 長岡市では、ビハーラ病棟ができてから、僧侶の姿で病院に行っても、断わられたり、嫌な顔をされることは少なくなりました。全く無いというわけではありませんが、そういう意味で、坊さんが病院に来るのも、日常の光景であるとなりつつあるのでないかと思っています。

 Aさんという五十歳の女性です。しばらく前の話ですが、四十九歳のときの三月に新潟のがんセンターで子宮がんの診察を受けて、全摘手術を受けられました。ところが七月に骨髄と肺への転移が見つかり、もう手術はできない、放射線療法もできない。最近は非常に放射線療法が発達しているそうですが、の方はできなかった。抗がん剤を使いましたが、思った効果が上がらない。そして痛みが強く出てきたために、がんセンターからビハーラ病棟に転院をされました。
 付き添いとしていっしょに来た青年が二十二歳の、東京の大学で学んでいる長男でした。彼の上には、二十四歳のお姉さんがいて東京に就職をしていますが、会社を何ヶ月も休むわけにはいかない。この患者さんは若いときにご主人と別れて、二人の子どもを育ててこられました。八月三十日にビハーラ病棟に入院をされたのですが、長男は九月、十月、十一月、十二月、一月と大学へ通えば、卒業できるわけです。そして六月には本人が望むところに就職も、内定をしていたと言っていました。しかし大学を卒業することよりも、自分の思ったところに就職することよりも、今自分を産み育ててくれたお母さんの傍にいたい、そのようにすることが大切なことだと考え、彼は大学に休学願いを出してきました。当然卒業できません、就職もだめになってしまいました。しかし彼は、それから十二月半ばにお母さんが亡くなるまで、毎日ベッドサイドで看病をしていました。
 最初のころは、まだ歩くことができて、少し余裕がありましたから、二人で散歩に出かけたり、テレビを見たり、音楽を聴いたりしていましたが、骨髄への転移のために、下半身から麻痺が起こってきました、やがて歩くことができなくなりました。しばらくして、感覚が麻痺しまして、歩くことだけでなく、排泄も困難になり、おむつが当たるようになりました。五十歳の女性が、二十二歳の男性からおむつを替えてもらうという、たいへんな苦しい思いがあったのだろうと思います。

 今、ビハーラ病棟で一番困るのは、呼吸苦と、このおむつがあたるという問題です。肺がんの呼吸苦というのは、取ることはできません。身体の痛みは、今はモルヒネだけでなく、非常にいい薬がたくさんあります、いろいろな薬で、ある程度、取ることはできます。しかし肺がガンに冒されて、肺の機能がなくなった人にいくら酸素吸入をしても、酸素が吸収されませんから、非常に大きな、深い呼吸をしながら、苦しい思いをします。そういう方にはセデーション、鎮静をかけます、眠っていただくということがおこなわれるようでありますが、肺がんの末期というのは、苦しくて見ていられない病気の一つだと思います。そして七十歳でも八十歳でも、やっぱり自分の足で立って、トイレに行きたいという思いは、みんな強いわけですが、残念ながら多くの人がおむつをしなければならない、そしてこれを替えるのは、もちろん看護師が替えてくれますが、この五十歳の女性は、息子のほうがいいと言って、息子さんがおむつを替えていたのですが、お互いに大変つらい思いをしたのだろうと思っています。そのうちに、次第に手のほうも麻痺が起きてきまして、自分で食べることができなくなりました。三食食事介助が始まりました。そういう状況でありますから、非常につらい思いをしながら彼女はビハーラ病棟で生活をしていました。ある日、長男さんが「ちょっと買いものに行きたいから、木曽さん、一時間ばかり母の面倒を見てほしい」と言われましたので、「どうぞゆっくり行ってきてください」と言いました。私と年齢やや似ていましたので、入院時からずっと親しくお話をしていたものですから、二人きりになりしばらく雑談をしていました。その時、彼女が「生きるってとってもつらいことですね」という言葉をつぶやきました。

 ビハーラ病棟にいますと、いろいろな患者さんの訴えが聞かれます、お年寄りの場合などは、「早くお迎えが来てほしい。もう充分病気と一緒に闘ってきた、もう早く死にたい」ということを言われる方があります。また「だんだん歩くことができなくなりました」「食べることが苦痛になってきました」と言われる人もいます。私は、その患者さんは、今何を私たちに訴えかけているかということを、いつも考えながらお話をさせていただいています。
 例えば「歩けなくなってきました」と言うと、看護師はリハビリの先生を呼んで、少し足をマッサージしながら、「動かしてみましましょうか」ということを言う場合もありますし、「ご飯がだんだん喉を通らないのですよ」という話をしたときには、「それでは流動食にしましょうか、栄養剤を使いましょうか」ということを言うこともありますが、私はそういう場合でも、そうでない場合があると思うのです。「動けなくなってきました」「ご飯が食べられないのです」と言う場合に、彼女や彼たちは、何を私たちに訴えているのだろうか。動けなくなってきたということは、これから寝たきりになって、死んでいかなければならないということです。食べられなくなってきたというのは、まもなく死ぬのでしょうねということを問うているのではないでしょうか。
 そのようなことを考えながら、「生きるってとってもつらいことですね」と言われたときに、彼女は決して死にたくはないだろうな。二十四歳の娘さんと、二十二歳の息子さんの将来のことなどいろいろなことを見届けたいだろうなと思いながら、しかし生きるってどういうことなのだろうかと、自分自身に問いかけているのではないかと考えたのです。

 ナチスの強制収容所に入った体験をもとに書かれた有名な「夜と霧」の著者、V.E.フランクルの初期の著作『それでも人生にイエスと言う』という本があります、そのなかに、人間が生きるということについて書いてあります。
 一つは、創造的価値、有用性、私は何か役に立つ人間だ。家のため、会社のため、社会のため、いろいろなことで役に立っていることのできる人間だ。歳を取っても留守番ができるとか、いろいろなことで私は役に立っているのだという思いが、生きる力を与えてくれる。
 二つ目に、体験的価値、何かものごとに感動すること。今、あちこちでゲートボールなどがはやっていますが、あれはお年寄りを非常に元気に生かすのかもしれません。スポーツだけでなく、音楽を聴いたり絵を描いたり、ビハーラ病棟でもたくさんの方が、絵を描いたり写真を撮ったり、また自分の一生を思い出して、ワープロで自分史を書いたりしていかれた方もたくさんあります。素晴らしい音楽を聴く、素晴らしい絵に会うとか、そういうもので生きる感動を持ちながら、生きる力になってくれる。
 三つ目に、態度的価値、私たちは人間関係の中で生きています、人間はお互いに親子、夫婦、兄弟、友人、さまざまな人と支え合って生きている、お互いに支え合いながら、励まし合いながら生きている、そのようなことを、フランクルは書いています。

 私は、この五十歳の女性についてはどうなのだろうか。役に立つということは、ほとんどないと言ってもいいです。食べることから排泄からすべて一日中、いろいろな方の世話にならなければなにひとつ生活できません。何かに感動できるか、テレビを見たり、本を読んだりすることはもう、そのときはできないのです。首を動かして、青空を眺める程度です。何か喜びがある、感動するということはないのです。では娘さんや息子さんと支え合って生きているか。支え合って生きているのでしょうが、彼女のなかでは、息子に迷惑をかけている。私がこうして寝ているために、大学も休学して、就職もキャンセルしてしまった。そういう思いのなかで、非常に苦しい思いなのだろうと考えました。
 私たちは何のために生きているのか、私はどうして生きねばならないのか、そんな思いが、「生きるってとってもつらいことですね」という言葉のなかにあらわれたような気がしました。どう答えようかと思いながら、実は私も、私が十九歳の時、五十二歳で父を亡くしました。その父も最期は肝臓がんでした、一年間ほど大変に苦しみましたし、最後は声も出なくなって、衰弱して亡くなっていく姿を見ています。大学二年生五月に亡くなり葬儀を勤めてすぐに大学に戻りました。七月の夏休みに家に帰った時、私は家中、父を探した思いでがあります。父は十年ほど心臓が悪くて、寝たり起きたりしながら入退院を繰り返していました。「寝たきりでも、声が出なくても、父がいたということが私にとっては一つの支えだった。そんな思いで父を探したのですよ」という話をしながら、もし寝たきりでも、声が出なくなっても、「あなたに生きていてほしい」と願っている、息子さんや娘さんがいるではないですかと話しました。そして一緒に何度か仏堂でお参りをしました。一緒にお念仏もしました。寝たきりでもお念仏は出てくださいます。いつも、ほとけさまが一緒です。お任せしましょう。

 人間は、生きたくても死なねばならないし、死にたくても自由に死ねません。自分の自由にできるいのちではないのです。生きたいからずっと生きられるわけでもないし、死にたいから死ねるわけでもない。自分のいのちでも自分の自由には出来ません、自分の持ちものでもない。いただいてきた、願われてあるいのちなのではないですかという話を、こんなにうまくは言えませんでしたが、そのとき、ぽつぽつと話したのです。彼女は涙を流して、うなずいて、うなずいてくれました。それが救いになったかどうかわかりませんが、それから約一カ月、まだ苦しい日々を送ったのかもしれません。しかしそれでも、お互いのこころのなかを見せながら話し合うことができたな、そんな思いで彼女とお別れをしました。