長永寺歴史

長永寺歴史

開基から江戸時代

長永寺の歴史は、残念ながら近年戊辰(ぼしん)戦争で焼け、また第二次世界大戦の長岡空襲でも寺も住職と共に全焼し、詳しい資料が全て失われてしまいました。戦後まもなく恵隆前住職やその叔父、叔母、当時の門徒総代などが集まり、戦前の資料を思い出しながら書かれた「長永寺のながれ」や長岡市の歴史資料などによって、現在知り得る範囲でこの度の本堂落慶法要を一つの区切りとして、ここに長永寺の歴史を現すものです。

西條山長永寺は文(ぶん)亀(き) 元年(1501年)清和源氏の流れを汲む木曽義仲より三代目木曽満仲の末裔木曽左馬頭義政が世情を深く憂い、出家して名を「了(りょう)珍(ちん)」と改め浄土真宗の僧侶となり、信濃の国水内郡西條郷に庵を結びました。これが長永寺の始まりです。
その後、長永寺が長岡に移って来たのは、慶長12年(1607年)に、越後国古志郡蔵王村(現在の長岡市城岡付近)に一寺を建立し移転しました。このとき木曽家譜代の家臣35名が随伴してきました。その主な人々は、安井家、太田家、渡辺家、猪俣家、大宮家、内山家、関川家、山崎家などです。
さらにその後、元和元年(1615年)堀丹波守の長岡城下の整備により現在の地に移転し、今日に至っています。
なお長永寺の歴史と歴代住職については2代から15代住職までは火災などのため一切の資料が残っておらず、残念ながら不明です。

囂外黌そして明治時代

第16代住職は木曽恵(え)寂(じゃく)師、17代住職は木曽恵涯(えがい)師ですが、略歴等は不明です。17代住職恵涯師の長女木曽操子(みさこ)師(1818年・文政元年生まれ)が、1839(天保9)年西蒲原郡砂子塚の本願寺派長宗寺より、恵禅師(1815年生まれ)を24歳の時を迎えて、18代住職となりました。(注・長岡市教育委員会の看板が境内にあります)恵禅住職は漢学、宗学、天台華厳を越後学派僧(そう)朗(ろう)学んだ後、京都の学林で仏教を学びました。長永寺入寺後、1845(弘化2)年に境内に私塾「囂外黌(こうがいこう)」を開設し、僧俗の子弟に仏学や漢学を教えました。この囂外黌は操子坊守、長女の展子(のぶこ)師が恵禅住職を助け共に教育に当たりました。三人の業績は後に「木曽三先生言行録」として出版されました。恵禅師は資質穏和にして学徳高く、生涯をお念仏の繁盛と人材育成のために尽くされました。囂外黌は明治32年文部省の私立学校令により学則を更改し、後の恵(え)然(ねん)・昨(さく)非(ひ)住職へと受け継がれてきました。囂外黌の主な出身者は七里(しちり)恒(ごう)順(じゅん)(博多万行寺和上)、弓波(ゆみなみ)瑞(ずい)明(みょう)(龍谷大学学長)、小野塚喜平次(東京大学総長)、渡辺龍聖、関根仁應、日野公任、廣橋連城、石原僧宣など学んだ子弟は4千名、卒業者は9百名を数えました。
長永寺の本堂は、慶応元年(明治元年1868年)戊辰戦争の兵火に焼かれ消失しました。しかし門徒の切なる思いと、篤き懇念により1877(明治10)年には間口8間1尺奥行き6間2尺の土蔵作りの立派な本堂が再建されました。

戦後の長永寺

昭和20年8月1日の戦災で焦土と化した長岡市の中で、長永寺も本堂、庫裏をはじめ一切を焼失し、住職寺族3名も焼死しました。ただ1人戦地で生き残った21代恵(え)隆(りゅう)住職は、戦後まず3名の葬儀を行いました。葬儀は11月18日戦災を免れた本町の善行寺様を借りて門信徒約百名が参列して行われました。お斎は富島門徒一同が炊き出しによるおにぎりでした。当日の葬儀の役員名簿を紹介します。
喪主 住職木曽恵隆、葬儀委員長 渡辺正治、副委員長 太田仁一郎、 役員 渡辺松雄、柳田昌哉、大宮総一郎、野本誠二、金山孫七、韮沢順市、原誠作、星野久一郎 他
戦後は門徒も住む家に困窮していたので、恵隆住職も母親の実家立川家から譲り受けた、一間だけの東屋暮らしでした。20年の冬は特に大雪でありましたが、21年より長永寺の仮御堂建設に向けて協議が重ねられました。
建設委員は住職、渡辺正治、原誠作、星野久一郎、大宮総一郎、野本誠二、韮沢順市、森藤太郎、渡辺松雄、丸山熊吉、太田三四吉、三代金山孫七、二代柳田昌哉、佐野幸作
建物は1部2階建て24坪建築費は当初3万5千円と見積もられた。しかし当時は凄まじい物価の高騰で、しかも門徒の多くも被災していて寄付集めは困難を極めたようです。やがて昭和21年4月より富島門徒の労力奉仕もあり、工事が始まりましたが、材木の搬入が思い道理にいかず、8月には完成を願っていたが、10月に入ってようやく上棟式を迎えることが出来ました。しかし資金不足と人手不足でこのまま越冬する事となり、昭和22年3月に工事を再開して,ようやく5月に竣工することができた。建築費用は8万2千9百円であった。
真新しい庫裏の床の間にご本尊様を安置して、漸く朝夕こころ安らかに勤行する事が出来るようになった。恵隆住職はこのことが何ものにも代え難い喜びだと感謝の言葉を述べられた。なお前年の5月26日に新潟の河内家より長女よみ氏を縁あって坊守として迎えることが出来ました。ようやく戦後の混乱も少しおちついてきたが、まだまだ長永寺の復興と門徒の困難は続きました。その後も市内の門徒は復興に勤め、ようやく昭和24年4月門徒の皆様のご賛同を得て、約20坪の仮本堂の建設が始り、この年10月に完成し、御遷仏法要が営まれました。
しかし月日と共に参拝の間は手狭で本堂の再建が討議されましたが、当時は門徒の生活がまだ安定していないと考え、昭和30年に仮本堂の増築計画が行われ、10月には内陣を増築した仮本堂が完成しました。

本堂再建と墓地整備

その後も住職を中心に本堂再建に向けて研究をはじめました。しかし昭和33年に恵隆住職に心臓病が発覚し、さまざまな手当を施すも病状は回復せず、病状は長引き一進一退の日々を送ることになった。その間も病気の身体をおして法務を勤めました。昭和36年日本はようやく復興景気が続き、長岡も活況を呈するようになりました。この年は親鸞聖人七百回大遠忌に当たり長永寺も本堂再建に向かって決意を固め再建案が立てられました。
長永寺本堂再建案 鉄筋コンクリート二階建 建坪 90坪
予算 7百50万円  建築完成予定 昭和42年
以上のように決定され、全門徒総会を開き審議の結果、全員の賛同を得て本堂の再建が決定されたのです。恵隆住職は病気の身体にも関わらず門徒に募財の依頼をして回りました。その結果計画を大きく上回る浄財が寄せられ9百万円の予算に増額し、さらに計画を一年繰り上げて昭和40年秋に地ならしが始まり、昭和41年4月1日に本堂の起工式が行われました。9月末には住職門徒待望の本堂が完成し、この年10月23日、報恩講法要に併せて落慶法要が盛大に厳修されました。しかしこのころは既に住職の病状は悪化し、一人で立ち上がることも困難であり、また言葉を発することも出来ない状態であった。当院(現22代住職)隆氏が付き添ってお勤めし、挨拶は深く門信徒に一礼し、当院が代わって「有り難うございました」と一言お礼を述べ感激の涙のうちに退場した姿を今も思い出します。当日の参拝者は門徒130名・僧侶14名・稚児・来賓など総150数名余りであった。最終建設報告では総額11.564.758円でした。

翌年昭和42年5月24日21代恵隆住職は戦前戦後の激動の時代を長永寺再建に尽力された52年の人生を全し、往生されました。このとき現22代隆住職は大学2年生在学中で長永寺は前住職の友人であった徳宗寺住職井上憲司氏に代務住職を依頼し、よみ前坊守が寺を守るという困難な時代を迎えました。昭和45年3月龍谷大学を卒業した隆住職はこの年の7月には本山において正式に長永寺22代住職に任命されました。その後昭和50年に越路町飯塚明鏡寺よりあき子氏が入寺し坊守が誕生しました。その当時、3代の住職に使えた円山龍昭氏が役僧として住職を補佐していましたが、80歳を迎えて退任し、あき子坊守が僧侶資格を拾得し、住職と共に長永寺の護持運営にあたりました。

1990(平成2)年に、住職より墓地は江戸時代のままで地盤が低く、少しの雨でも水がたまり、また墓の向きがまちまちでお参りがしにくい。この際墓地の全面的整理をしたいと提案があり、門徒総会を開催の上、1991(平成3)年8月1日墓地改修起工式を行い墓地の墓石全部を一時川崎町の空き地に移動し、お骨は清掃の上本堂に預かり、墓地の全面改修が行われた。これは長岡市の寺院としては始めての事業でした。翌年1992(平成4)年4月12日門徒約200名の参拝とお稚児様21名、僧侶10名、楽人などの参加を得て盛大な墓地改修記念法要が厳修されました。これにより現在のような整然とした墓地に生まれ変わりました。

その後2001(平成13)年に、住職後継者(当院)木曽耕(こう)亮(すけ)氏が大学時代の友人、裕美氏と結婚し、長男勇(ゆう)立(りゅう)が誕生し、長永寺の将来の担い手となることを願っています。
2002年新本堂建設について発案があり2003年門徒総会に於いて本堂建設が承認される。現代的で、多目的に使用できる本堂建設の設計を始める。2006年3月設計図完成、5月建設工事契約・本堂解体工事着工、7月8日建設工事起工式、2007年3月20日竣工引き渡し、総工費1億6千万円。2007年5月27日新本堂落慶法要を厳修する。
長永寺はこれまで支えてきていただいたご門徒の篤い思いを大切に、門徒全員の心のより心として、また地域の憩いの場となるよう勤めていきます。